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祖母のこと

15歳の祖母
15歳の祖母

昨日は母方の祖母の13回目の命日でした。祖母は私が建築の道にすすむきっかけを与えてくれた人です。

祖母はサブコンの社長でした。曽祖父が一代で築き上げた、地元ではそこそこの会社でした。祖母の夫だった人に、私は会った事がありません。婿養子として迎えられ4人の子供をもうけても自分の居場所がつくれず、駆落したと聞きます。

半世紀も前の建設業界はまさに男社会。他の建設会社の社長が芸者を沢山よんで繰り広げる宴会に祖母は飄々と出席し、まだまだ働く女性の少ない時代に、女社長としての付き合いもこなす一方で「再婚なんて、味噌汁の味が濃いとか薄いとか、そんな文句言われるの面倒だから、あたしゃ嫌だよ。」と、きっぱりとシングルマザーを貫きました。

 

戦後どさくさの時代に会社を大きくした曽祖父は、刺青をし、お妾さんを囲い、社長をしながら市議会の議長を務めていたと聞きます。ずいぶんと柄の悪い社長ですが、当時始まったばかりの資格制度を誰よりも早く取得して一級建築士だったそうです。地元のお祭りの盛り上げ役も買っていました。景気が良かったので遊びも派手な一方、祖母からは会社で死人やケガ人が出た話を何度も聞かされました。資材が頭に落ちて死んだ人、社員旅行のハワイでお酒を飲んでカヌーを漕いで海に流され帰らなくなった人、うちわ祭の山車に轢かれて足の親指を骨折した人、山車から落ちた人、解体現場の釘が足に刺さって歩けなくなった人、事故と隣り合わせの職場、若い衆の不始末には頭を下げ、見舞いや家族への気配りも、祖母は欠かしませんでした。

曽祖父と曽祖母
曽祖父と曽祖母

 初孫だった私は、物心つく前からちょくちょく祖母の家に預けられ、会社の人に可愛がってもらいました。景気の良い時代だったので、仕事は忙しく、会社には活気がありました。家と会社が隣り合わせで、仕事もプライベートも区別なく来客があり、その都度祖母と曽祖母は丁寧にもてなしていました。盆や正月には子供だった私もお茶出しを手伝わされ、世間話に付き合わされました。

 

祖母は定年を目前にした59歳で脳梗塞を発症し、右半身麻痺の後遺症が残りました。その時のショックはいかほどだったか、想像できません。前向きな祖母はリハビリと自分に言い聞かせ左半身で家事をこなし、社長を引退後は会長として多くの人から慕われ、家にはいつも来客がありました。旅好きだったので、よく孫の私を旅行に連れて行ってくれました。子供にはもったいないような贅沢な旅で、建築や美術を見る目を育ててもらいました。女性が学歴を持ち、社会に出ることも心から応援してくれました。祖母の家は大正時代に造られた純和風の庭園つき木造家屋で、私は大学時代にその家で一年を暮らしました。祖母は老いや病気と闘いながらも、食事に気を配り、家を清潔に保ち、客人をもてなし、健やかに生きることの大切さをおしえてくれました。

 

けれど、いつしか社長を継いだ叔父との仲がうまくいかなくなっていきました。バブル崩壊で会社の経営状況も厳しくなり追い詰められていたのか、私が祖母の家に住みながら建築学科に通うのを快く思わない叔父が、「社長は俺なんだ!好きなようにはさせない!」と怒鳴り込んできた事がありました。建築業界全体が不安定になり、大学の教育も、まだまだ古い建設業界の名残があり、女性はマイノリティで就職先も少なく、私は迷いや悩みだらけでした。とにかく、底知れぬ不安があり、なんども建築から逃げたいと思いました。けれどあと少しで抜け出せそうになってもなぜか建築に引き戻されました。駆落した祖父のことも気になり、家を探しに行った事もありました。人目を避けるように田舎にひっそりと建つ家を見て、私はずっと祖母の近くにいられて本当に良かったと改めて思い、自分の来た道がどこなのか、これからどこに行くのか、なんとなく知る事ができました。

 

本当は祖母や叔父に、建設業界の事を色々と教えてもらいたかったのですが、その叔父も来月で13回目の命日を迎えます。命懸けで守ってきた会社は、数年前に大手の建設会社に吸収合併され、会社自体が無くなったと知りました。こんなに儚いものとは。もっと時代の波が緩やかだったら、会社に振り回されず家族みんな穏やかに暮らせていたのでしょうか。祖母は私の前で声を荒げた事は一度もありませんでしたが、その激しさとぶつかる人もいたそうです。「私が死んだらお棺の中にこの手紙を一緒に入れてね」それは祖母の初恋相手が鹿児島の知覧から特攻隊で飛立つ直前に書いた恋文でした。こちらの心配をよそに来世で恋人と再会するのを楽しみにしていた事に驚きました。私が知らない祖母の姿もたくさんあります。円満とは言えない、いびつな家庭、それでも真っ直ぐ生きようとする姿。愚かしいけれど、人間らしいと言えば人間らしい。それほど感情的に熱くなれる人間性だからこそ、危険を伴いながらも建物を形にする事ができる、建築とはそういう業界なのだと思います。

 

私が一級建築士の試験に合格した時、誰よりも喜んでくれたのは祖母でした。同じように一級建築士だった叔父が資格取得に苦労したのを知っていたからでもありました。「いつかかおりちゃんは自分の事務所を持つと思ってるよ」亡くなる前に祖母が言ってから3年後、ごく自然に設計事務所を開設する事ができました。今年、祖母が社長になったのと同じ歳になります。この歳になってわかったことも山ほどあり、ようやく建築への恐怖心が薄れてきました。社会が建築に求める意味もだいぶ変わりました。祖母のように豪快には生きられないかもしれないけど私は私なりのライフワークバランスで人生を進みたい。どうか見守ってね、と墓前で祖母に手をあわせました。